ベラルーシ要塞続き。①では博物館の紹介。
②ではこの青空の下の広すぎる敷地内に散らばる、モニュメントと廃墟を紹介。日本でも戦時跡の廃墟は数多くあるけど、大概柵とか安全に配慮する。ここはベラルーシ。勝手に見ろ的放置であった。
巨大慰霊碑とモニュメント
エントランスの五芒星の門をくぐり、まっすぐに歩き、小川を渡る。
中心には巨大な塔と英雄の像(左)。そして慰霊碑。
ナチスドイツのバルバロッサ作戦に対し、激しい抵抗を見せた要塞守備兵を讃えている。ソ連側の抵抗はナチス側の予想をはるかに超え、ソ連側に戦闘準備の時間を与えてしまった。多大な死者と捕虜を出し、完全に陥落したのは7月20日。侵攻開始の1941年6月22日から実に1ヶ月のことだった。
それでも一部ソ連兵士は独自に抵抗を続け、8月8日ヒトラーとムッソリーニがこの地を訪れた際には厳重な警戒態勢が引かれた。
その後1965年、大祖国戦争で激しく抵抗した要塞に送られる英雄要塞の名誉称号がソ連より送られ、2004年世界遺産に登録された。
ここは国境の町である。ロシア時代、ポーランド時代、ソ連時代を経て、現在はベラルーシとなっている。
夕日とモニュメント。
M「カーネンションはロシアでは亡くなった人の為の花で、慰霊の為に捧げているの」
同行者のMちゃんに、どうして赤のカーネーションのみなのか聞いてみた。日本でいう菊の扱いなのか。
M「この↑プレートは、戦った町の名前が示してあるのね。ミンスクやモスクワ、レニングラード(サンクトの旧名)とか」
M「こっちのプレートは・・ええと・・氏名と所属部隊や階級とか。亡くなった方に対して書いてあるの」
ご存知の通り、ブレストは比較的小さい要塞で、人数のみでいうなら第二次大戦で多大な死者を出した日本人的にいうと・・少ない。逆にいうとその少ない人数で防衛をせざるを得なかった英雄たちか。
英雄の像の裏側。
敗戦国である日本で一般市民の慰霊はしても、祖国の為に戦った方の慰霊がしにくいのは異常だと思う。
Mちゃんとクリミア半島
少し話がそれる。Mちゃんについて。
Mちゃんはヤルタ出身で、ベラルーシとロシアに旅行に来て、ミンスクのドミで私と出会った。私がちょうど行き方を調べていたお祭りが、Mちゃんの幼い頃に住んでいた場所だったのもあり、盛り上がり仲良くなった。それぞれ観光し、ブレストで再開し、また各々旅行を続けている。
Mちゃんの幼い頃の故郷はウクライナのポルタバ近く。その後、クリミア半島のヤルタに移り住み、大学に行きそのまま就職。現住所はヤルタだ。
(2019年8月。外務省の安全情報より抜粋)
ヤルタ会談のあった場所。そして、クリミア半島に興味がある人なら、ん?と思うところがあるはずだ。クリミア半島は現在ロシアだ。
以下外務省HPより抜粋。
(1)ウクライナでは,2013年11月にヤヌコーヴィチ大統領(当時)下の政府が,欧州連合(EU)との連合協定の署名プロセスの一時停止を発表したことを契機に,欧州統合を支持する市民を中心に抗議活動が各地で発生し,その後治安当局との衝突へと発展しました。その結果,2014年2月にヤヌコーヴィチ大統領は国外へ逃亡し,政権は崩壊しました。
(2)2014年3月,ロシアがクリミア自治共和国及びセヴァストーポリ市を違法に「併合」したことにより,この地域では現在までロシアによる不法占拠が継続しており,ウクライナ政府の統治が及んでいません。
(3)こうした動きを受けて,2014年4月,ウクライナ東部のドネツク州及びルハンスク州において,武装勢力が行政府庁舎等を占拠し,自称「人民共和国」の樹立を一方的に宣言する等,ウクライナから分離独立を目指す動きが見られるようになりました。これに対して,ウクライナ政府は,武装勢力によって占領された領地を取り返すべく,「反テロ作戦」を開始し,現在まで同地域においてウクライナ政府部隊と武装勢力との間で散発的な戦闘が継続しています。
私はクリミア戦争とナイチンゲールへの尊敬から、一度セバストーポリへ行ってみたいと思っていた。そしてロシア領になってしまった今ではビザ無しでは入れない(入手したとしても入れるのか?)
初対面でMちゃんは自分をロシア人と名乗った。「え?ヤルタ?ウクライナだよね?」と聞くと、
M「そう。5年前にロシアになって、私もロシア人になったのよ」
羊「私も行きたかったのに(ビザの為に)入れなくなって。治安は?」
M「今は問題ないよ。」
羊「正直、どっちが良かった?ウクライナとロシアと」
M「ロシア。経済的にロシアになった方がマシだわ」
ハハハと笑うMちゃん。彼女はその後ウクライナでセバストーポリ(同じくクリミア半島)から来た女の子に出会ったが、その子は完全に反露だった。
S「元々クリミアは平和な小さい街だったのよ。今はロシアからの移住者ばかり目立って、治安が一気に悪くなって。私はウクライナ人だけど、ロシアとの二重国籍になったわ」
わざわざ聞かないが、たぶんMちゃんも二重国籍になるのだろう。Mちゃんと話したのは親露でドミトリーにはロシア人観光客だらけのベラルーシ、Sちゃんとはウクライナのキエフ、反露感情は日本の反韓どころじゃない。
それぞれが、本音か建前かもわからない。そして、同じクリミアでも住む場所も経歴も環境も変われば意見も変わる。あまりに対極的過ぎる意見で、どちらが一般的かすらわからない。
Mちゃんはベラルーシの後はロシアを観光し、飛行機でクリミアに帰る。帰り方が特殊である。クリミア半島から直接キエフなどウクライナ方面の飛行機はないそうで、ロシア領であるクラスノダール(確か)に飛び、そこからクリミアに帰るそうだ。「飛行機がないから、一度クラスノダールに行くか、モスクワに行くか。何にせよお金がかかる」と。
Sちゃんは別の帰り方をする。セバストーポリとヤルタはクリミア半島の同じ南側で黒海に面した街。規模としてはセバストーポリの方が大きい。ので、前述のロシアからの移住者もセバストーポリの方が多く、ヤルタの方が平和だそう。
S「キエフからバスで10時時間以上かけて、現国境に行くのよ。そこから4kmくらい歩いて国境を越えて、クリミアの入国審査を受けて、またバスに乗って自分の街に帰る。1日じゃ無理だから途中で宿泊しながら。同じウクライナだった時はこんな変な事にはならなかったのよ!」
ヤヌコーヴィチ政権(親露)に対するウクライナ内戦に続き対露戦闘。何人も亡くなり、ロシアによる経済圧力もあり(というか、ロシア経済への依存度が元々大きいみたい)、リヴィブでもキエフでも反露意識はめちゃくちゃ強く、街中でプロパガンダを見ることが出来る。
キエフ、オデッサへ続けて旅行する事をロシア人の友人Zに話したら、「いいなぁ〜俺も行きたい」と言ってたが、多分無理だろう。ロシア人男性はウクライナへ入れない。
以下。2018年11月30日、日経新聞より抜粋
ウクライナのポロシェンコ大統領は30日、16~60歳のロシア人男性の入国を制限したと明らかにした。ロシアの情報機関や軍関係者が主導した工作活動や攻撃などを防ぐねらいとみられる。
この措置は現在も続いている。ウクライナ人→ロシアはOK、ロシア人でも女性や上記対象外の男性のウクライナ入国はOK。クリミア半島など国境の街は度々戒厳令が引かれている。
キエフのドミで出会ったAはウクライナの国境の街ルハンスクからキエフに仕事を探しに来た。ウクライナの賄賂問題を教えてくれた彼である。
羊「国境どう?これ日本の外務省のHPなんだけど、渡航中止勧告が出てるのよ」
上記の地図を見せる。ぶっちゃけ、長期旅行者の間ではレベル2までは余裕。レベル3(渡航中止勧告)からは避けることを検討(が、行く人もいる)が通説になっている。あくまで自己判断であり、南西欧州なんで真っ白(レベル1)だが、時折テロは起こるし、大都市ではひったくりやスリ被害はよく聞く。あくまで状況を見ながら自分で判断するしかない。
クリミア半島の問題は、決してロシアのみに責任があるわけではない。そもそも混ざり合った民族でソ連時代を通過した現在、クリミヤなどウクライナ西部の人たちのアイデンティティはどこにあるのか。では自分のナショナリティが貧しい側でもそちらを選びたいか。故郷を離れ一家離散し出稼ぎに行く人も多数いる。Aは「僕らはもう慣れてしまった。でも君がルハンスクに旅行に来るのは進められない」という。
羊「あなたはネットの仕事だから、キエフでもどこでも世界中から受注出来るでしょう?」
A「この仕事は収入は不定期だ。フリーランスだからね、だからキエフで仕事を探して定期収入を得たい。これ、僕のサイト」
HPにデザイン請負についてや、実際のデザインなど宣伝してある。ん?(性的)マッサージ店のサイトを見つけた。
A「これはロシアからの依頼だよ。正直やりたい仕事じゃないけど、選んでられないからね」
羊「・・私の旅ともがね、キエフのドミは東から逃げてきたり仕事を求める人が沢山泊まるから、治安を考えるなら少し高めの宿に泊まれって教えてくれて、ここを選んだの(ここは1000円/1泊で高め。300円から見つかる)」
A「それは正解だよ。ホームレスとかもいるからね。ここは居心地がいい。僕はそろそろ地元に帰らないと行けないけど」
羊「何故ルハンスクに住むの?」
A「地元だし、家族がいる。親や兄弟や・・家族みんなでキエフに移動したいんだ。その為に探してる」
羊「良いところが見つかるよう祈っているわ」
長期放浪者ニートの羊が言える立場ではない。普段私はヨーロッパでチップは出さない。よほど良いサービスを受けた時以外。ロシア人Zがベラルーシで毎回チップを置いている理由がわかった。ベラルーシでは感じにくかったが、ウクライナでは貧しさを感じる。ここでは私も彼を見習い、適度なお金がある場合はちょこちょこ置いている。。
要塞内探索
要塞内は広い。近くを流れる川を越えたらすぐポーランドである。・・密入国できそうだな。まさか夜間に河岸全てに監視をおくわけじゃあるまいし。正当なパスポートを所持しシェンゲン内に入れる羊には関係ないが、シェンゲン内にビザが必要な人間にとっては頭をよぎったりしないんだろうか。
要塞内と郊外にある正教会に関しては別記事で。
小川を渡り直ぐのモニュメントは水を飲む兵士の像。
まっすぐ進むと広場と英雄の像。
Mちゃんと要塞内をまずは一周する事にした。
初夏のブレストは柳が枝垂れ美しい。
別記事博物館②の外側。飛び出している兵士がシュール。
戦いの後が残る。
西洋のあじさいは日本のと違う。
ここから、要塞の外側をぐるっと川沿いに歩く。
ここには昔、橋が架けられていたそう。杭は名残?
廃墟は続く。人気がまったくなく「ここ観光用じゃないでしょ」とM。
橋の名残。ここを渡ったら要塞の北側に出るみたい。
M曰く「被れるから触らないで。私たちこれをスープに入れるのよ」
被れるものをどうやって収穫するんだろう・・
行き止まり、引き返して要塞内に戻る事にした。
博物館④前の廃墟。所々コンクリで固めているのはなんのため?保護?
この博物館④奥、小川をわたってまっすぐ行くと要塞跡の廃墟群がある。初日、一人で観光し、ベンチで休憩後再度歩いていると、うしろから叫び声が聞こえた。言葉がわからないし私じゃないだろうと思い無視していたが、走る音が聞こえたので振り返ると、男の子がベンチに置き忘れた私のカメラを持ってきてくれていた。叫び声は、彼女たちのグループが私を呼ぶ声だったらしい。
「ありがとう!!!本当に助かったわ!」
お礼を言って別れる。オリンパスのそこそこいいカメラ・・国によっては一瞬で無くなっている。ベラルーシは一般の人たちが親切だ。もちろんお釣りをごまかす云々もない。完全な私の不注意。本当によかった〜😊😊
要塞跡の廃墟群
廃墟群は要塞中央から北門に歩くと見える。ここも出入り自由だが、誰もいねぇ。
今にも崩れそう・・てか崩れた瓦礫の山が。頭上に気をつけながら中に入ってみる。
私はこういう落書きは嫌いです。許可された場所でやるなら良いが。
好きに入れ。と。中は行き止まりで、ベットのような粗大ゴミのようなもので封鎖されていた。
別の入り口・・
妙にファンシーな扉が逆に怖い。2階にいく入り口もあるかもしれないが、この時はMちゃんおらず初日(Mちゃんとも来たが、彼女は触りだけみて満足した)。人間に出くわすのが1番怖いので、ここで終了。
周囲を取り囲む廃墟もぐるっと一周できる。マジで誰もいない。不審者に出会ったら全力で逃げる心がまえは万端だ。
M「6月30日にソ連軍がここに旗を隠して、戦争の終わった1956年にその旗が見つかったんだって」
入り口付近だけ見に来たMちゃんが訳してくれた。
旗を奪われるのは国辱だ。他国に軍事式典などで参加する際に外国人であろうが旗を守る護衛官は武装が認められているほど。燃やすではなく隠したのか。隠した人間にとってはナチスから守りきれて本望ではないか。
以上。モニュメントと要塞跡編。公園内は自由・無料なので、博物館に興味なくてもこれだけで雰囲気はつかめると思う🐏⭐️